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織田信長はなぜ諏訪大社を焼いたのか。

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織田信長像 賛・跋 Wikipediaより転載

 

 

織田信長と言えば比叡山延暦寺の焼き討ちが有名です。神仏も恐れぬ怖いもの知らずのその姿は小説やドラマでも多く描かれ信長の性格を象徴するもののひとつとされています。このような無神論者のイメージが強い信長ですが、調べてみると、どうやら一概にそうとも言えない面を持っているようです。まとめてみたのでご覧ください。

 

 

信長が焼き討ちしたのはお寺だけ⁉

信長が全く信仰心がなかったのかというと、そうとも言い切れません。まず、信長の先祖は福井県丹生郡(にゅうぐん)越前町織田に鎮座する劒神社(つるぎじんじゃ)の神官だったということが知られています。しかも、ご先祖様だけでなく、信長自身もこの神社を氏神様として崇め、神領を寄進するなどして、神社を保護しているのです。この一事でも、単純に「信長は無神論者」で片付けられないことがわかります。

 

もう一つ信長は神道に対して大きな貢献をしています。それは伊勢神宮の式年遷宮の復活です。

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第59回内宮式年遷宮(上が新殿舎、下が旧殿舎)

1953年

Wikipediaより転載

 式年遷宮とは三重県の伊勢神宮の内宮、外宮の建て替えの儀式で、20年ごとに萱葺き屋根の高床式社殿や神宝類を一新し、ご神体をうつします。上の写真のように隣接する場所に新しい社殿を建造し、ご神体を移した後に古い社殿を取り壊します。御存じの通り伊勢神宮は天皇家の祖先神でもあるアマテラスオオミカミが祀られており、天武天皇が発意し、持統天皇の治世690年に第一回の式年遷宮が行われています。

 

ところが、戦乱の続くこの時代は天皇や公家達は貧窮し、約120年間この式年遷宮を行うことができていませんでした。1563年に民衆や大名の寄付により、外宮で129年ぶりに遷宮を行うことができたのですが、内宮の遷宮費用までは用意できませんでした。そこで信長に、内宮も遷宮したいので千貫の寄付をしてくれないかと訴え出たところ、信長は千貫では足りないだろうと三千貫もの大金を寄付したと言われています。

 

こう見てみると、やはり信長は神官の子孫だけあって神社には特別な思いがあったのだろうと思われることもあるようですが、ところがそうでもないのです。

 

というのも式年遷宮の寄付が、必ずしも信仰心のために行ったとも思われないからです。信長は正親町(おおぎまち)天皇を保護するためという大義名分で京都を制圧しました。さらには当時のひっ迫した朝廷の財政を、新たな政策や援助で建て直し、朝廷を味方につけることに成功しています。その後、信長と朝倉義景・浅井長政との戦い、足利義昭との戦い、石山本願寺との戦いの講和は正親町天皇の勅命で行われており、天皇が信長の意向で動くようになりうまく利用できていることがわかります。つまり、戦国の世で成り上がってきた信長が覇権を握るためには天皇の威光は欠くことのできない条件の一つだったのです。式年遷宮への寄付は天皇家や公家達を味方に引き入るための一策ではなかったかのではないでしょうか。

 

 

神社も焼き討ちされています

と、ここまで長々説明してきてなんですが、そもそも神社も焼き討ちしています。あまり知られてないですが比叡山延暦寺焼き討ちの際も、近くの日吉神社(山王信仰の総本山)を焼き討ちしていますし、信長の嫡男・織田信忠が信州・甲州侵攻で武田勝頼を打ったときも武田の信仰の篤かった諏訪大社(諏訪信仰の総本山)の上社を焼き討ちにしています。当然、そのことで誰かが罰せられるということもなく、信長は焼かれた諏訪大社に隣接する法華寺で論功行賞を行い、諏訪は戦勝を祝いに来る武将たちの軍で大変賑わったと言われています。いずれの焼き討ちも信長が直接手を下したわけではありませんが、家臣たちに神仏より信長の方が怖いと思わせたからこそ、神社仏閣を焼き討ちさせることができたのだと思います。つまり、神仏の持つものにちかい本物のカリスマ性を信長自身が持っていたのではないでしょうか。

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(現在の諏訪大社上社本宮)

 

 

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(四脚門 よつあしもん  織田信忠軍に焼かれ、1608年に徳川家康に再建しされたものが今も残ります。)

 

 

こうしてみてくると、信長が特に神道に思入れがあったとは思えず、利用できるものであれば利用するし、邪魔ならば打ち払うという現実的な判断を下していたことがわかります。キリシタンの布教を容認したのも、宣教師たちが自分に利をもたらすと判断したからで、害になると分かれば秀吉や江戸幕府以上の弾圧をキリシタンに加えた可能性は十分にあると思います。宗教を客観的に捉え、いいとも悪いともせず、病気も天災も悪霊の仕業だと思われているような時代に、その時の状況に応じて宗教を利用したり排除したりする、信長のその豪胆さと冷静な頭脳には驚かされます。

 

ちなみに余談ですが、諏訪大社の焼き討ちの後、論功行賞を行っていた法華寺の陣で、明智光秀が戦勝を祝う他家の武将たちの軍で賑わう諏訪の様子を見て「我々も頑張った甲斐があり、ようやくここまで来ましたなあ。」というようなことを発言したところ、信長が「貴様が何をしたか!」と激怒し欄干に光秀の顔を押し付け、それを見ていた部下たちに「叩きたいものがいたら頭をたたいていいぞ。ほれほれ。」と促したとか。信長の機嫌が悪かったのは諏訪で陣をしいている際、信長と光秀で模擬戦をしたところ光秀に完敗したからとも言われていますし、光秀の発言が武田領侵攻をした嫡男・織田信忠を差し置いて、さも自分の手柄のように喋っているように聞こえたことが信長の鼻についたのかもしれません。

 

この数か月後、本能寺の変で信長は光秀に討たれることになり、信忠も自害。光秀は秀吉に討たれることになるのです。

諏訪人としては「諏訪大明神の祟りだ・・・」と言いたくなる気持ちもご理解ください(笑)

 

 

 

以上、織田信長の神社仏閣焼き討ちについて調べてみました。結論として信長にとっては神も仏も自分の部下みたいなものだったといったところでしょうか。また不思議に思うことがあれば調べてみたいと思います。最後までご覧いただきありがとうございました!