こちらの写真は東京国際フォーラムに展示されていた「梅花の宴」のワンシーンです。今更?と思われそうですが、「令和」という年号の典拠となった『万葉集』に出てくるこの場面。一体どんな場面なのか調べてみることにしました。
「令和」は、「大化の改新」でおなじみ、日本初の元号「大化」(645年~)から数え248番目の元号になります。出典が明らかな10世紀以降の日本の元号はすべて漢籍(中国の書物)から引用されてきましたが、「令和」は日本古典からの初めて引用となり、そのことでも話題となりました。
そしてこちらが「令和」の典拠となった『万葉集』の一文の書き下し文の展示パネルです。
『万葉集』は奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集です。全20巻で4500首以上の和歌が収められており、大伴家持(おおとものやかもち)が何らかの形で編纂にかかわったとされています。天皇から農民まで様々な身分の人々の歌や、2100首以上の作者不明の歌が収められています。
上のパネルは『万葉集』巻五の『梅花の歌三十二首併(あわ)せて序(じょ)』の書き下し文です。この文章は、後に続く32首の歌がどういった場面で歌われたのかを説明する序文になります。上のパネルを下に文字おこし(?)しました。赤文字の「令」と「和」が年号に使われた箇所です。
天平二年正月十三日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いえ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺(みね)に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧(きり)結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まど)ふ。庭には新蝶(しんちょう)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きぬがさ)とし、地を座(しきい)とし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿(えり)を煙霞(えんか)の外に開く。淡然と自(みずから)ら放(ひさしきまま)にし、快然と自(みずか)ら足る。若(も)し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述べむ。詩に落梅の篇を紀す。古と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
下の現代語訳の展示パネルを参考に単語を調べてみました。
◎単語
・天平(てんぴょう)・・・西暦729~749年。聖武天皇の時代。
・帥(そち)・・・大宰府の長官。ここでは歌会のホストでもある大伴旅人(おおとものたびと)を指します。
・令月(れいげつ)・・・なにをするにも良い月。めでたい月。
・気淑く(きよく)・・・空気がよい。きよらか。
・風和ぎ(かぜやわらぎ)・・・風が穏やかになる。柔らかくなる。
・鏡前の粉(こ)を披(ひら)き・・・鏡の前の白粉(おしろい)のように白く咲き。
・珮後(はいご)の香を薫(かおら)す・・・珮は諸説ありますが明治大学・加藤徹教授によると玉珮(ぎょくはい)のことらしいです。ちょっとわかりずらいですが、下の写真の帯の左右に垂れているのが玉珮で、歩くとシャラシャラと音が鳴ります。高貴な人がつける装身具であったため玉珮をつけた人が通った音の後には、装束に染み付いたお香の香りがただよったのでしょう。それが珮後(はいご)の香ではないでしょうか。
・曙(あけぼの)・・・夜が明ける朝方。
・羅(うすもの)・・・目の粗い絹織物の一種。薄絹。
・蓋(きぬがさ)・・・絹を張った柄の長い傘。貴人が外出の際、後ろからさしかけるのに使った。
・岫(くき)・・・山のくぼ地。
・新蝶舞い・・・春になって蝶が舞い始める様子。
・故雁(こがん)・・・去年渡ってきた雁。雁は冬に日本にやってきて年を越し、春に北に帰っていく渡り鳥(冬鳥)。
・座(しきい)・・・しきもの。座敷。
・觴(さかづき)を飛ばす・・・酒を酌み交わす。
・言(こと)を一室の裏に忘れ・・・部屋の隅に言葉を置き忘れてしまったかのように、何も話さずくつろいでいる様子。
・衿(えり)を煙霞(えんか)の外に開く・・・煙霞は自然の風景。心を外に開放している様子。
・淡然(たんぜん)・・・あっさりしているさま。または、静かなさま。
・自ら放(ひさしきまま)にし・・・自らの心のままに振舞う。
・快然(かいぜん)・・・気分がよいさま。楽しい気持ちのさま。
・翰苑(かんえん)・・・文章。手紙。
・詩に落梅の篇を紀(しる)す・・・下の現代語訳パネルでは「中国にも多くの落梅の歌がある」と訳しています。その後に「昔と今となんの違いがあろうか」と続くので、「詩」とは歌や文章のお手本にした古い文学作品のようです。当時、和歌は白居易などの中国の漢詩の影響を受けていたと言われるので「詩」とはお手本にしていた中国の古い詩のことを指しているようです。
・園・・・庭。
・賦(ふ)して・・・お題をもらって詩歌を作って。
・聊(いささ)かに・・・少し。ほんのちょっと。
・短詠を成すべし・・・歌をつくってみよう。
こちらが現代語訳の展示パネルです。
「珮後(はいご)の香を薫(かおら)す」など、ちょっと直したい部分もあったので自分なりに現代語訳してみます!素人の訳なんか読めるかよという方は上のパネルを熟読してください(笑)。上のパネルがようわからんという方は是非ご覧ください。
〈現代語訳〉
(結構意訳ですが、なるべく違和感がなく全体がつかめるよう心掛けました。)
天平2年正月13日、太宰府(だざいふ)長官の大伴旅人(おおとものたびと)の屋敷に集まり、宴会を開いた。初春の過ごしやすく何をするにも良い月で、空気は澄み、柔らかい風が吹いている。梅は鏡の前の白粉(おしろい)入れを開いたかのように白く咲き、蘭は高貴な方が通った後のような気品のある香りを漂わせている。それだけではない。朝方の山の嶺(みね)には雲が流れ、松にかかる薄絹のような雲は、まるで高貴な方が使う絹の傘のように見える。夕べの山のくぼ地には霧(きり)が生じ、その中を薄絹で閉じ込められたかのように鳥がさまよい、飛びかっている。庭には蝶が舞い、空には年を越した雁が北に帰ろうと飛んでいる。その中で、私たちは空を絹の傘にし大地を敷物にして、膝をつきあわせ酒を酌み交わしている。皆、言葉を部屋の片隅に置き忘れてきたかのように何も語らず、自然の中に心を漂わせくつろいでいる。気兼ねなく奔放に過ごし、心は気持ちよく満ち足りている。これを歌にしなければ、どのような時に心を歌うことができようか。古くは中国にも多くの落梅の歌がある。昔の人達と私達にどんな心の違いがあるというのか。よし、庭の梅をお題にちょっと歌でも作ってみようじゃないか!
と、ここから32首の歌が並ぶのです。
「令和」って最初は字面だけ見ると「命令に従い強調して行動する」みたいなイメージでしたが、こうやって見てみると「令和の年」とは「何をするにもちょうどいい、めでたく、そして穏やかな年」というのが正しいイメージだということがわかります。なかなか雅な元号ではないですか!
ここから32首紹介したかったのですが、わたくしの電池切れ・・・。
次回はその歌を紹介します。
最後までご覧いただきありがとうございました!
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