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相撲の起源は殺し合い!?

先日、東京国際フォーラムの「装束展示」のコーナーを見に行きました。色々なブースに分かれてジオラマが展示されており、その一つに「古代の相撲」が紹介されていました。そちらをまとめつつ自分でも調べてみましたのでご覧ください!

 

展示されていたジオラマはこちら。

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こちらが「相撲節会(すまいのせちえ)」のワンシーンです。

 

 

 

 

相撲節会(すまいのせちえ)とは?

734年聖武天皇天覧相撲(天皇の前で行われる相撲)を宮中で行い、それをきっかけに「相撲節会」という行事として宮中相撲が恒例化していったそうです。一時途絶えましたが、再開し高倉天皇1174年まで続くこととなりました。

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江戸時代に描かれた「相撲節会図(すまいのせちえず)」のパネルも展示されていました。ジオラマはこちらの資料などを参考に作られたようです。

 

玉座に座る天皇の前で相撲を取っているのがわかります。

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相撲節会図によると上の写真右上に座っている人たちは大臣や大納言などの殿上人(てんじょうびと)のようです。

 

この人たちです。

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観戦も偉いのでがっつきません。背を向けてます。BGMぐらいに思っているのかな?

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相撲節会は最初はその年の豊凶を占う神事だったり、宮中行事の余興だったようですが、徐々に武力訓練の一面が強くなっていきます。宮中の警備や要人警護の人達が参加し、全国からも相撲取りが推挙され集められました。

 

20組40名が左右に分かれて相撲を取りました。(時代によって違うようです。)

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畳んだ着物も再現されています。

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髪飾りがかわいい。

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ご覧の通り行事はおらず、進行係にあたる「立合(たちあわせ)」が左右から2名ずつでて付き添っただけでした。判定がつかない時は公卿たちで協議が行われ、最終的には天皇が決めたと言われています。

 

立ち合いは立った状態で、両者で息を合わせて始めたそうです。

 

勝負がつくと勝った方から舞人(まいびと)がでて、弓を用いた立合舞(たちあいのまい)が披露されました。

 

こちらは雅楽師達

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こちらが舞人

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 上の写真の舞人の衣装は実物大のものが展示されていました。

 

勝った時の舞には定番の舞があるようで、天皇から見て左手が勝った場合は「蘭陵王(らんりょうおう)」の舞が披露されました。これがその実物大の衣装です。

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この舞は中国の北斉(ほくせい/549~577)で、蘭陵(らんりょう)の王があまりにもイケメン過ぎて、戦場の兵士たちの士気が上がらなかったため、恐ろしい仮面をつけて戦ったところ大勝利し、そのことに喜んだ部下たちに作られたと伝えらえています。

 

天皇から見て右側が勝った場合は「納蘇利(なそり)」が披露されました。

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「納蘇利」は朝鮮半島から伝わった舞です。「蘭陵王」と対の舞となっており、雌雄の龍が遊び、天に上っていく姿を表しているそうです。

 

この2つの舞は相撲だけでなく、騎射(うまゆみ)など左右に分かれて競う競技で勝った時に演奏される勝負曲として使われたそうです。

 

 

宮中相撲の最古の記録

宮中で行われた相撲の最古の記録は「日本書紀」に記述されている、垂仁天皇7年(推定・紀元前23年)7月、野見宿禰(のみのすくね)当麻蹴速(たいまのけはや)が垂仁天皇の前で行った御前試合です。

 

こちらはその話を題材にした安本亀八(やすもとかめはち)作の『相撲生人形(すもういきにんぎょう)』の巨大パネルの展示です。

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野見宿禰が当麻蹴速を投げ飛ばそうとしています。鬼気迫る二人の顔や、強靭な筋肉はとてもリアルで、その場に居合わせてしまったような気持にさせます。

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『日本書紀』によると当麻蹴速(たいまのけはや)は強靭な肉体を持っていたため、「どこを探しても自分ほどの力を持つ人間がいない。何とかして強い人間と出会って、生死をかけた試合をしてみたい。」と周りに漏らしていました。それが垂仁(すいにん)天皇の耳に入り、だれかこれに勝てるものはいないのかと家臣に尋ねたところ「出雲に野見宿禰(のみのすくね)というすごい男がいます。」といったので野見宿禰を呼んで天皇の前で試合をさせました。二人はまず立ったまま蹴り合いをはじめ、野見宿禰は当麻蹴速のあばらを踏み砕きました。そして、彼の腰を踏み砕いて殺しました。   (参考:日本書紀上  宇治谷孟)

 

???これが相撲なのか・・・・

 

どうやら昔の相撲は文字通り「生死をかけた」素手の総合格闘技といったところだったようです。

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Wikipediaより転載

当麻蹴速と角力を取る野見宿禰 (月岡芳年『芳年武者无類』より)

 

この後、野見宿禰は褒美として当麻蹴速の土地を譲りうけ、そのまま天皇に仕えるのですが、この人にはもう一つエピソードがあります。

 

垂仁天皇の頃、高貴な人が亡くなり埋葬する際に、その人に仕えていた者たちも一緒に生き埋めにする習慣がありました。それを目の当たりにした垂仁天皇は心を痛め、野見宿禰に何とかならないかと相談したところ、野見宿禰は地元の出雲から人を呼び、土から人や馬を作らせそれを埋葬することを提案しました。垂仁天皇は「そういうこと!」と非常に喜んで土師(はじ)の姓を与えたと伝えられています。

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この土師氏(はじし)とは後の古墳時代に活躍する古墳づくりのプロ集団です。あくまで「日本書紀」によるとですが、野見宿禰が埴輪を発明し、後の古墳づくりのプロ集団・土師氏の祖になったということになります。力も強く、頭も切れるスーパーマンだったんですね。

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話しがそれてしまいましたが、以上が古代の相撲に関してわかったことでした。相撲の起源とまではいかないかもしれませんが、古代の相撲の形はわかってきたのではないでしょうか。そしてこうした相撲が、各地の神社における「神事相撲」、武士の鍛錬としての「武家相撲」、さらに今日まで続く民間の「勧進相撲(かんじんずもう)」と引き継がれていき、今日の大相撲の源流となっていったのです。

 

こうした相撲の歴史を知ると、テレビで目にする大相撲の見え方も変わってきますし、何より一度両国国技館で生の相撲を見てみたいと思いました。

 

長くなりました最後までご覧いただきありがとうございました!