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鎌足神社をめぐる論争とは! (茨城県鹿嶋市)

関東三社巡りで茨城県鹿嶋神社の近くに何か神社がないか検索していると鎌足神社という神社が出てきました。中臣鎌足(なかとみのかまたり)は気になっている人物の一人だったのでちょっと遠かったですが足を運んでみたんですが、調べてみるとなかなか面白い場所だったのでご紹介します。

 

 

徒歩で20分ほどひっそりとした小道を進んでいきます。

 

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思ったよりこじんまりした神社でした。

 

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本殿も質素で神社というより祠といった様子でした。

 

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社殿の下の格子の奥を覗いてみると白蛇の描かれた石が置かれていました。このあたりにも蛇神信仰があるのかもしれません。白蛇の浮き出た石は宇賀弁財天とつながりが強く江の島弁財天に奉納されているのを見たことがありますが、なぜ鎌足神社にあるのかはわかりませんでした。

実は見かけはたいしたことないなと少しがっかりしたのですが、神社の歴史を調べてみると日本史好きにはたまらない場所であることがわかりました。やっぱり歴史を知ると神社はもっと面白い!

 

 

 

中臣鎌足ってどんな人物?

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菊池容斎画 藤原鎌足肖像

Wikipediaより転載

 

まずは御祭神の中臣鎌足(なかとみのかまたり)とはどんな人物だったでしょうか。

言わずと知れた中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)と飛鳥時代645年から始まる「大化の改新」を成し遂げた人物です。

当時、曽我氏は聖徳太子が亡くなり権力や富をほしいままにし、権力のために皇族にまで手をかけるなどしてやりたい放題でした。周囲の人間たちは徐々に不満を募らせていきます。そんな中、鎌足は曽我氏打倒の意思を固め、最初は別の皇子に近づきますが、後に志を同じくする中大兄皇子と組み乙巳の変(いっしのへん)をおこします。そこで蘇我入鹿は首を討たれ父の蘇我蝦夷(えみし)も自殺に追い込まれます。このような経緯を見ると「大化の改新」は鎌足が主導した日本の大変革だったことがうかがい知れます。

 

もしここで天皇家が絶え、曽我家が天下を取るようなことになっていれば、もはやルールなしの下剋上になるのですから戦国時代以上の混乱が日本で起こっていた可能性も否定できません。そうなれば日本でこれほどまでに豊かな文化が生まれていなかったかもしれないし、どこかの国の属国になっていたかもしれません。そう考えると、鎌足の決意がどれほど日本にとって重要な意味を持っていたかが想像できます。

 

ただ、後に鎌足は天智天皇から藤原姓を授かり藤原鎌足となるのですが、その子孫たち藤原氏は曽我氏と同じようなことをやり始めるという皮肉な結果になります。しかも曽我氏を教訓に堂々と皇族に手をかけるようなことは避け謀略を張り巡らし、もっと陰湿な手を使うようになります。それはまた別の話。

 

 

この神社をめぐる論争とは?

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と、ここまでは前置きですが、この鎌足、出生地が議論の的になっているのです。候補地は二つで、一つがこの鎌足神社のある茨城県鹿嶋市で、もう一つが奈良県橿原市(かしはらし)です。

 

鹿嶋市説の有力な根拠は鹿島神宮の神主やこの地の長に中臣氏の人々が任じられていたこと。後の藤原氏の氏神を祀る神社・春日大社の御祭神・タケミカヅチノミコトが鹿島神宮から勧請されてきたということです。このことから鎌足と鹿嶋に強いつながりがあることは間違いないと思われます。

また、平安時代後期に成立した歴史物語「大鏡(おおかがみ)」に鹿嶋を鎌足の生誕地とする記述もあるようですが、あくまで物語なので信憑性は薄いと考えられています。神社境内に置かれている案内板には江戸時代から明治にかけてまとめられた「新編常陸国誌」に「鎌足社」の記載があり、当地が鎌足の生誕地だという説が紹介されているということが書かれていますが、だいぶ時代が下ってからの書物なので確かな根拠とは言いがたいです。

 

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こちらは境内に置かれている石碑です。上の部分に「大織冠藤原公古宅址碑」とあります。大織冠(だいしきかん)とは鎌足が天智天皇から死ぬ直前に授かった最も位の高い冠位で、これを授かったのは後にも先にも鎌足だけです。宅址(たくし)とは住居跡ということなので、「藤原鎌足の住居跡の碑」という意味であることがわかります。これは明治25年に建てられた碑ということなので残念ながら根拠とはならないように思います。

 

 

奈良県橿原市(かしはらし)の言い分は?

もう一方の奈良県ですが、橿原市かもしくは隣の明日香村を鎌足の生誕地としています。

有力な根拠としては鎌足の母・大伴夫人(おおともぶにん)のものとされるお墓があります。また700年代後半ごろ成立の万葉集では、天武天皇が夫人である鎌足の娘に送った歌に、

 

我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後(のち)

 

これは「私の住む里では雪が降ったよ。君が住む大原の古びた里に降るのはもうちょっと後だと思うけど。」という「古」と「降る」をかけつつ、シティーボーイをアピールする歌なのですが、ここで出てくる「大原」が鎌足の母の墓がある「大原の里」(今は小原の里と書く)であるとされています。つまり、母親の墓も明日香村にあり、娘の里も明日香村と読まれているのです。

書物で言及されているものとしては760年成立と言われる鎌足のひ孫・藤原仲麻呂により作られた藤原氏の家伝書「藤氏家伝」で鎌足は今でいう橿原市で生まれたとされ、かつてその地は藤原と呼ばれており、その地が藤原姓の発祥の地であることが記されています。

 

 

で、結局どっちなの?

 わかりません(笑)

 

でも、これは私がわからないだけじゃなく、学会でも長く論争されていますがいまだ結論は出ていないようです。

 

中臣氏は昔から鹿嶋にいたけど、鎌足の親は奈良の都に出仕していて奈良で生まれたんじゃないだろうかとも思えるし、鎌足のひ孫・藤原仲麻呂が自分は生粋のシティーボーイだよとアピールしたくて奈良生まれに家伝書を仕立てたようにも思えるし、個人的には奈良生まれの方がやや信憑性があるかなというぐらいの感想です。

 

この他にも一つの説としてですが、この頃朝鮮半島では百済が新羅と唐の連合軍に苦しめられていた時期なのですが、百済の皇子が大和王権との同盟の証(人質)として大和の国にやってきて、中臣氏の養子に入って育てられた、それが中臣の鎌足だと考える人もいるようです。この考えは「先代旧事本紀(せんだいくじほんき)」によるものです。かつては偽書とされていましたが、現在では研究の対象とされているようです。勢い余って買っちゃいました。

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 めちゃくちゃ高かったので面白かったらまた別記事で書けたらと思います。

結論は出ませんでしたが、中臣鎌足は本当に面白い。歴史の教科書で1行で片付けられてしまうのは本当にもったいないと思いました。

 

 

長くなってしまってすみません。最後までお読みいただきありがとうございました!!