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日本三大悪人に数えられた道鏡とは何者か。

今回は道鏡について調べてみました。

 

道鏡は700年頃大阪府八尾市で生まれました。若いころから仏教の高僧の弟子になり、サンスクリット語を学んだりして、宮中に入れるほどの高い地位の僧侶になります。

 

女性天皇の孝謙天皇(こうけんてんのう)の時代。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)実質的な権力を握っていました。仲麻呂は孝謙天皇から皇位を奪い、自分の操り人形になる淳仁天皇(じゅんにんてんのう)に継がせ、孝謙天皇を上皇に、自分は太政大臣になります。そして本来、天皇しか持てないはずの貨幣鋳造権も手に入れるなどして、権力をほしいままにします。一方、孝謙上皇は平城京の改築で一時、居を滋賀県に移すこととなったのですが、そこで体調を崩し床に臥してしまったのです。

 

おそらく、孝謙上皇は女性天皇ということで男ばかりの群臣たちの心をなかなか掌握できず、体も心も疲れ切って、自信を失っていたのではないでしょうか。そんな時に看病役にあてられたのが道鏡です。薬を与えたのか、ひたすら祈祷を捧げたのかはわかりませんが孝謙上皇は道鏡の力で病気から完全復活し、以後道鏡を寵愛するようになります。病気を治してくれたのはもちろん、その後の孝謙上皇のメンタル的な支えになっていたのではないかと想像します。なぜならその後の孝謙上皇が別人のように政治に自ら携わっていくようになるからです。

 

近づきすぎた二人の関係を危惧した仲麻呂は、淳仁天皇を使ってその関係を注意させます。すると孝謙上皇は立腹し、淳仁天皇との間に大きな溝ができてしまいます。

 

現代でもしばしばワイドショーで心の弱ってる芸能人にそういう怪しげな占い師、メンタルトレーナー、整体師のような輩が近づいて問題を起こすニュースを見ますが、何かそれと同じようなにおいがします。

 

孝謙上皇は病気から回復し、宣言します。「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と。つまり、もう一度自分が最高権力を持って私が政治を行うということを宣言したのです。しかし、実質的な権力者であった仲麻呂は当然納得できません。反乱を起こし武力で権力を奪い返そうとしますが、その乱は鎮圧され仲麻呂は首を切られてしまうのです。孝謙上皇完全復活です!

 

淳仁天皇は仲麻呂と関係が近かったことで責任を取らされ廃位に追い込まれ、孝謙上皇は自ら重祚(ちょうそ/再び皇位につくこと)し、称徳天皇(しょうとくてんのう)を名乗ります。

 

ではその後、誰が仲麻呂に代わり太政大臣になったのでしょうか。それが道鏡なのです。道鏡は出家のまま太政大臣禅師となり、翌年には法王(仏教の最高指導者)となり、仏法に基づいた政策を推し進めるようになります。天皇と同じ輿に乗れたり、食事も天皇と同じものを食べれたりと、待遇はほぼ天皇と同じところまで昇りつめてしまいます。道鏡の弟(弓削浄人/ゆげのきよひと)をはじめ道鏡の一門はどんどん貴族に召し上げられます。そんな時に起こったのが「宇佐八幡宮神託事件」です。

 

宇佐八幡宮の神主が「道鏡を天皇にすれば天下太平になりますよ」と神託がくだったというのです。

 

なぜそんな話が出て来たかというと、先ほど出てきた道鏡の弟、弓削浄人(ゆげのきよひと)は当時大宰帥(だざいのそち)という役職で宇佐八幡宮を管轄していたのです。たまたま弟の管轄の神社に神様からそんな神託が突然届くって、どう考えても都合よすぎますよね(笑)

 

普通なら疑ってもいいはずですが、道鏡の権力にひれ伏す群臣たちは何も言いません。ましてや道鏡を信じ切っていた称徳天皇(孝謙天皇)は疑うべくもなく、神託を真に受け皇位を譲ろうと考えてしまうのです。しかし、それでもさすがに天皇の血統を断絶するなんてことしていいのかと思い悩み、家臣の和気清麻呂(わけのきよまろ)に本当にそういう神託があったのか宇佐八幡に行って確かめてきてほしいと命じるのです。

 

清麻呂はおそらく周りの群臣たちの不満を一身に感じて、宇佐八幡宮に向かったのではないでしょうか。宇佐八幡宮につき神主に確認するとやはり、「道鏡を天皇にすべし」と神託が降りたというのです。清麻呂は刀を抜いて押し付け、嘘はないなと迫ります。その迫力に圧倒され神主は「嘘です・・・。」と言ってしまいます。言質をとった清麻呂は宮中に帰り、「やはり天皇は天皇の血統が継ぐべきで無道のもの(道鏡のこと)は追放するべきだと言ってました」と称徳天皇に報告します。称徳天皇も判断を迷ってはいたものの大好きな道鏡を追放しろとまで言われてしまったので、清麻呂に「追放しろというのは、お前の私情をはさんでいるだろ」と立腹し、清麻呂は足の腱を切られ、名前を穢麻呂(きたなまろ)に変えられ鹿児島に飛ばされてしまったのです。

 

清麻呂の懲罰後、称徳天皇は少し冷静になったのか「天皇は皇室の血統のものが継ぐ」と宣言し、結局、道鏡の皇位継承はかないませんでした。その翌年、称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野薬師寺別当にあっけなく左遷され、772年その赴任地の下野国で没しました。(下野薬師寺別当は現在はなくなっており、資料として塀の一部が復元されているだけです。)生まれた年が700年ぐらいとされてますので、正しければ享年72歳です。栃木県下野市の龍興寺境内に、今でも道鏡の墓と伝えられる塚が残されています。道鏡の弟・浄人をはじめ親族4名は捕縛され、高知県に島流しにされました。

 

ゲスな噂(R18です)

これだけ親密だった道鏡と称徳天皇なので、世間は好奇の目で見たのは言うまでもありません。二人は姦通していたとか、「道鏡は 座ると膝が 三つでき」なんて川柳も読まれたほど、男性器が大きく孝謙天皇がとりこになっていたとか、さまざまな噂が後年ささやかれました。ただ、根拠は薄く、信頼のおける一次資料はないそうです。

 

熊本市に道鏡と孝謙天皇が祀られてる弓削神社(ゆげじんじゃ)という神社もあるようで、男根をモチーフにした像や女陰型の木が納められ、子授けや夫婦和合にご利益があるとされているそうです。男根の像に釘をたくさん打ちつけてから納める、浮気防止祈願の風習があったりと下ネタにまつわる神社もあるようです。

 

 

まとめ

こう見てくると、道鏡はとんでもない野心家のように見えますが、もしかしたら道鏡の弟が自分を出世させてくれた兄に感謝し、勝手に気を利かせて神託をプレゼントした可能性はないでしょうか?確かに、道鏡には和気清麻呂に「宇佐八幡宮からいい知らせを持ってきたら大臣にしてやるぞ。」とそそのかした逸話や、清麻呂が流刑にされ鹿児島に向かう後を追って命を狙ったという話もあります。しかし、もしかしたら道鏡の後年のヒールなイメージから生まれた創作なんじゃないだろうか?なんてことも考えました。

しかし!

さすがに気づきますよね。

弟が太宰府で長官をしていて、そこからそんな都合のいい神託が届いたら「あっ、あいつやってるな。」って思いますよね。十分権力は手に入れていたのに、それでも天皇になりたかったのでしょうか。歴史に名を残したかったのでしょうか。今になっては知る由もありませんが、少なくとも私なら満足しちゃいそうです。手に入れば、もっと欲しくなるものなのかもしれませんね。

 

 

以上道鏡の生涯をまとめてみました。神社巡りをしてこの名前に出会ったときに少しでも参考にしていただけたら幸いです。

最後までお読みいただきありがとうございました!