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神の子孫である天皇に寿命がある理由⁉冨士御室浅間神社(山梨県富士河口湖町)

去年から金運メタルカード守り探しを始めているのですが、ネットで調べてもなかなか出てきません。数少ないネットで見つけた神社のひとつが富士御室浅間神社(ふじおむろせんげんじんじゃ)です。富士山の周りには有名な浅間神社がたくさんありますが、そのなかでも河口湖のほとりにある比較的ひっそりとした神社でした。

 

 

 

里宮と本宮

 

<里宮>

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写真は里宮です。958年村上天皇が崇敬者が参拝しやすいよう人里に近い場所に建立した神社です。現在の建物は明治22年に再建されたものです。

 

 

 

<本宮>

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里宮の境内にある本宮は、昭和49年に現在奥宮がある富士吉田口登山道二合目から移築されてきました。富士山中で最も古いお宮で、文武天皇三年(699年)に藤原義忠(ふじわらののりただ/平安時代中期の貴族・歌人・儒学者)の創建とされています。

 

本宮は、800年に富士山の噴火の為炎上しましたが、初代征夷大将軍で知られる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東北征伐成就のお礼として再建します。社殿はその後も噴火による火災を繰り返し、その度修繕が行われてきました。

武田信玄の父・信虎をはじめ、武田家にも代々篤く信奉され、娘のための信玄自筆の安産祈願文や、信玄が彫った不動明王座像など今でも多くの武田家ゆかりの品が残っています。

昭和48年、本宮は積雪・風雨・霧など厳しい自然条件で管理が難しいことから今の里宮の境内に移築されました。翌年、昭和49年に重要文化財に指定されています。

 

拝殿の奥に移設されてきた社殿が見えます。

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社殿には色鮮やかな装飾が施されています。

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現在残っているこの社殿は1612年に領主・鳥居成次(とりいなりつぐ)が造営したものです。

 

 

御祭神と天皇にまつわる神話

御祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。

 

コノハナサクヤヒメは太陽神・アマテラスの孫神・ニニギノミコトの奥さんで、山の神・オオヤマツミの娘でもあります。おそらく太陽神と山の神とのつながりを持つこの女神だからこそ、富士山の麓のいたるところに祭神として祀られているのでしょう。

 

コノハナサクヤヒメは美しい女神で、天からやってきたニニギに見初められ結婚を申し込まれます。父親のオオヤマツミは喜んで、姉のイワナガヒメと一緒に娘二人を嫁に差し出します。ところがニニギはイワナガヒメが醜かったので、「お前はいらない」と追い返してしまうのです。オオヤマツミは怒ります。「イワナガヒメはあなたの命が岩のように永遠のものとなるように、コノハナサクヤヒメはあなたの治世が木の花が咲くように繁栄するよう誓約をたてて送り出したのだ。コノハナサクヤヒメだけを妻にしたあなたの命は木の花のようにはかなく散ることになるだろう。」とニニギに告げました。それ以来、太陽神・アマテラスの子孫といえど、ニニギもその末裔の天皇たちも寿命を持つようになったと言われています。

 

 

 

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こちらは境内にあった不老長寿の石像。特に説明板はなかったですが、台座に刻印された「不老長寿」というキーワードを上の神話と照らし合わせてみると、オオヤマツミとイワナガヒメで「あなたの命が岩のように永遠のものとなりますように」と言うことなのでしょうか。

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ニニギは結構ひどい事を言ってしまう性格らしく、コノハナサクヤヒメが身ごもった時も、「一夜で子ができるわけがない、違う男の子だろ。」なんてことを言い放ってしまいます。怒ったコノハナサクヤヒメはお腹の子が、天の神の子であるなら何が起こっても無事生まれてくるはずと、産屋に火を放ちその中で三柱の子神を出産したとされています。なんという気の強さ・・・。人間だったら離婚になるくらいの大失言ですが、日本の神様はこういう完璧じゃないところがあるのもまた面白いです。

 

ちなみにコノハナサクヤヒメはその美しさから芸能の神様ともされることもあり、芸能人御用達の新宿花園神社の境内にある芸能浅間神社の御祭神でも有名です。

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摂社末社もビックネーム

こちらの神社は参道脇や社殿をぐるりと囲むように石の祠(ほこら)が置かれています。

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稲荷神社もありました。

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中でも本殿真裏にあったこの祠は祀られてる神様がやばい。

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<別天津神社>

御祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、神皇産霊神(かみむすひのかみ)、可美葦牙彦舅神(うましあしかびひこじのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)です。

イザナギ、イザナミ以外の五柱の神様は「古事記」の中で別天津神(ことあまつかみ)と呼ばれる、混沌の中から世界を生み出した神様達です。日本の国土や数多の自然の神々を生んだイザナギ、イザナミよりも古い全ての始まりの神様なのです。

それにおまけのようにアマテラスオオミカミが合祀されているという最強布陣です。

 

 

おススメおみくじ・お守り

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 御祭神の名前にちなんで花咲おみくじというのがありました。普通のおみくじもあります。

 

 

そして、、、、、、

 

 

念願の金運メタルカード守り

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ついにゲットしました!遠かった!

コノハナサクヤヒメが描かれており、富士の麓で雲の上に乗っています。富士山最古の社、金運、開運!

 

いやー、この見つけた瞬間がたまりません。なかなか出会えませんがまだまだ探していこうと思います!あそこにあったぞっていう方は是非コメント欄で教えてください!よろしくお願いします!

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

メタルカード守りに興味がある方はカテゴリーのメタルカード守りをぜひクリックしてみてください。メタルカード守りがあった神社を紹介しています。

東国三社巡りの禁断の裏話

東国三社巡り」は関東のお伊勢さんと言えるくらい強力なパワースポットだという噂は度々聞いていました。いつか行ってみたいと思いつつ、なかなか財布的にも、移動距離的にも重い腰が上がらなかったのですが、去年ついに行ってきました!その時のレポートです。よかったら写真だけでもご覧ください。youtubeで気になる裏話も見つけましたのでご興味ある方は目次から飛べますのでそちらもどうぞ。

 

東国三社とは茨城県の鹿島(かしま)神宮息栖(いきす)神社千葉県の香取神宮を指します。県境をまたいではいますが、3社とも比較的近い位置にあります。

明治以前に「神宮」の名がつけられたのは「伊勢神宮」と「鹿島神宮」、「香取神宮」の三社だけです。京の都から離れた東国の神社でありながら、その格式の高さがうかがえます。江戸時代には「下三宮参り(または「お伊勢参りのみそぎ参り」)といって、関東以北の人がお伊勢参りをした帰りに、この三社を参拝するのが人気だったそうです。

 

 

 

 

御祭神

鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。創建は神武天皇元年と伝えられています。神武天皇元年は紀元前660年と推定されています。常陸国(ひたちのくに)の一宮。一宮(いちのみや)はその地域で最も権威のある神社のことです。

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香取神宮の御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)神武天皇18年(推定紀元前642年)の創建と伝えられています。下総国(しもうさのくに)の一宮。

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息栖神社の御祭神は岐神(くなどのかみ)を主神とし、相殿に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、住吉三神を祀っています。創建は第十五代応神天皇の頃と伝えられ、4世紀後半頃と推定されます。最初は少し離れた日川(にっかわ)の地にありましたが、800年頃、藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)により現在地に移されました。他の2つの神社に比べると新しい神社のようです。

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この三社の御祭神は「古事記」や「日本書紀」の神話の中で密接にかかわっていることがわかります。

『国譲り』のエピソードは、高天原(たかまがはら)の神が、葦原中国(あしはらのなかつくに)の神たちを制圧するのですがその時、力を見せつけ国を明け渡すように迫るのが鹿島神宮の御祭神・タケミカヅチ香取神宮の御祭神・フツヌシです。そのことから武神ともされている神様達です。

息栖神社の御祭神・岐神(くなどのかみ)は、息栖神社の社伝によるとその二柱の神に先立って国土の経営にあたられた神様とされ、相殿の天鳥船神(あめのとりふねのかみ)タケミカヅチの副神として先導を務めた神様と伝えられています。いわば、『国譲り』を完遂した英雄たちがこの三社に祀られているのです。

 

 

 

なぜ鹿島神宮と香取神宮は関東にあるのか

三社ともあまりにも古い神社でいつ誰が創建したかの正確な情報はわかりませんが、まず鹿島神宮の創建の由緒を紹介します。

 

カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)の勢力は長いこと九州に拠点をもっていましたが、奈良の大和に軍事侵攻することを決意します。しかし、その道半ばで絶体絶命の窮地に陥ってしまうのですが、そこに高倉下(たかくらじ)という者が現れ、夢のお告げで見つけたというタケミカズチの神威の宿っ韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を献上するのです。その剣の霊力でなんとか危機を乗り越え、見事大和を制圧することができたカムヤマトイワレビコはその神恩に感謝して、天皇即位の年にタケミカヅチを鹿嶋の地(宮城県)に祀ったというのが鹿島神社創建の由緒とされています。

 

ここで一つ疑問があります。神話にまつわる地名が西日本(九州や出雲地方)に多く残っていることから、多くの古代史好きは神話の舞台は九州と近畿の辺りで、実際にあった戦いなどが寓話になったんじゃないかと感じていると思いますが、なぜ神宮と名付けられるほど大事な社がそのような地方から遠く離れた関東に置かれたのでしょうか。

 

東国三社について調べているとYouTubeで面白い考え方の方を見つけました。下に貼っておきましたが、東北大学名誉教授の田中英道氏の動画です。「日本書記」には東北に蝦夷(えみし)という人々の住む日高見国(ひたかみのくに)があったと記されているのですが、田中氏によるとこの日高見国がアマテラス達がいた高天原だったのではないかというのです。最初はまさかあ!と思ったんですが考えれば考えるほどどんどん辻褄が合うような気がします。そう考えると鹿島・香取神宮が関東にあることも納得できるのです。

 

ここからは私見ですが、自分なりに高天原が東北にあった理由を考えてみました。

まず、東北に高天原があり関東に葦原中国があったとすれば、神武天皇がかつて「国譲り」で活躍したタケミカヅチ達を関東に祀った気持ちがわかってきます。というのも神武天皇は高天原の神々の子孫とされているので、もしかしたら自分たちのルーツが関東・東北地方にあったことを知っていたのではないでしょうか。

 

 

さらに東北と高天原を結びつけられそうな点を上げてみます。

 

①神武天皇元年が紀元前660年と推定されるので、それが正しければ神話の時代はそこからさらに時代をさかのぼるので縄文時代の話しであることになります。縄文時代は前期、中期、後期、晩期と東北と関東に人口が集中していたと考えられています。(参考:佐賀の縄文人)もしその時期に2つの大国があったとするなら東北と関東を二分していたと考えてもおかしくありません。

 

②先ほど記した奈良(大和)への侵攻の際、神武天皇は大阪湾から大和を攻めました。しかし、すさまじい反撃にあい大打撃を受けます。その時、負傷し瀕死状態になってしまったお兄さん(イツセノミコト)が神武天皇に言います。「アマテラスオオミカミ(太陽神)の子孫である我々が日に向かって戦ったから(西から攻めたから)負けたんだ。東に回り込んで日を背にして戦うべきだ。」と。なぜ、急にそんなジンクスを持ち出したのでしょうか。午後から戦えば日を背に戦えるという反論もできてしまいます。ただ、ジンクスとは過去の成功体験から生まれませんか?もしかしたら、神武天皇達は、かつて高天原の軍勢が関東を制圧し、東から西にその勢力を移動させてきたという歴史認識があったのではないでしょうか。そう考えれば、ジンクスだけでなく西から攻めたほうが地の利があるのかもしれないと考えた可能性もでてきて、わざわざ大回りしてまで西から攻めた理由も納得できます。

 

③遺伝子学的に見ると、縄文人系の遺伝子が強いのは関東以北と山陰地方(出雲)、沖縄だそうです。(参考:youtube 日本人はどこから来たのか/下にリンク)九州、近畿は弥生系の遺伝子が強いとされています。これは北と南から違う民族がぶつかったのではなく、縄文系が東北から九州まで降りてきて、そこで半島からの渡来人と血が混ざり弥生系の人たちが生まれたのではないかと考えられています。神武東征(神武天皇の奈良大和への侵攻)で弥生系が瀬戸内、近畿に広がっていったと考えれば遺伝子の分布と符合します。

 

以上の3点が、高天原が東北にあったのかもしれないと思った点です。こうしてみてくると関東平野一面に葦が生い茂り、その姿から葦原中国と名付けられた国の姿が浮かび上がってきませんか?

と、ここまで壮大な妄想に付き合っていただいた方ありがとうございました(笑)。

 

下の動画は参考にした動画です。三社巡りに実際に行った後に見ると、さらに面白く勉強にもなるのでぜひご覧ください。

 

参考:田中英道氏

www.youtube.com

www.youtube.com

 

遺伝子について参考:茂木誠氏

www.youtube.com

 

 

 

 禁断の裏話

 まずは初めに質問です。こちらは鹿島神宮と香取神宮の超有名パワースポットの要石ですが、上と下の要石、どちらの石からパワーを感じますか?

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こちらは鹿島神宮の要石(かなめいし)

 

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こちらは香取神宮の要石(かなめいし)

 

裏話とはこの二つの石にまつわる話で、上の田中英道先生の2本目の動画の中で出てくる香取神宮権禰宜(ごんねぎ)のお孫さんのお話です。こんなこと言って大丈夫なのか?と不安になりました(笑)

 

この2つの要石は一般的な説では、地下に棲む大鯰(おおなまず)の頭と尾っぽをそれぞれ抑えて地震の被害を抑えていると伝承されています。しかし、本当のところは江戸時代後期に鹿島神宮で暦(こよみ)を販売する際に、神社の売りとして表紙にそのことを書いて広めたのが、世間の人が知ることになった始まりなのだそうです。話の起源は定かでなく、鹿島神宮の公式な見解としても要石を鹿島信仰の正式なものとして扱わず俗説だとしているそうです。そもそも、最初に地下で暴れるのは龍だったのですが、途中から鯰になったとか。そちらの方が世間受けがいいと考えたのかもしれません。

香取神宮の要石はもっといい加減で、古文書に鹿島神宮の要石が評判になったので香取神宮にも設置したという記録が残っているそうです。さらには最初に設置された石が小さく貧相だったので、その時の香取神宮の禰宜さんが大きい石に取り換えたと聞いていると権禰宜のお孫さんが動画の中で話されています。

 

というわけでどちらも怪しげな石で、最初の質問は意地の悪いひっかけでしたが、江戸時代からの人々の信仰の思いが詰まってるのですから磐座と言ってもいいくらいパワーがあるかもしれません。この話しは忘れてください(笑)

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鹿島神宮の石像です。大鯰をタケミカヅチが抑え込んでいます。(これは神社さんの営業努力なのかもしれません・・・。)

 

 

 

パワースポット

上記の大鯰の話が作り話だったとしても、この三社がいにしえからの聖地であったことに変わりなく、いずれの神社も境内はひんやりと澄んだ荘厳な空気が漂い、透き通った湧き水に身が清められる思いがします。格調高いおすすめの神社です。

パワースポットのダイジェストをご覧ください。

 

<鹿島神宮>

参道。

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御手洗(みたらし)

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湧き水でとても澄んでいます。みそぎに使われていたとか。

奥宮。

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<香取神宮>

参道。

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奥宮

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神池。

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楼門。

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本殿と共に1700年徳川幕府による建造。どちらも国の重要文化財。額は東郷平八郎の筆。



<息栖神社>

忍潮井(おしおい)。男甕女甕の二つが並んでいる。奥に見えるのは常陸利根川につながる水門。

 

・男甕(おがめ)

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・女甕(めがめ)

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伊勢(三重)の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井(なおい)と並ぶ日本三大霊泉のひとつ。1000年以上もの昔から絶えることのない湧き水。両方の井の中にはそれぞれ甕が沈んでいて、水が澄んで底の甕を見ることができると幸運が舞い込むと言われている。

 

招霊(おがたま)の木。

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精霊の宿る幸運の木の代表格。近寄るとパワーを授かるとされています。

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一円玉のデザインになっている木です。

 

奥に見えるのが息栖の夫婦杉(めおとすぎ)。樹齢約1000年。

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おすすめのお守り

絶対集めたくなるのがこれ。三角柱の木のくぼみに三社それぞれで授与さるご神紋のシールを埋め込む東国三社守りです。

 

 

行く前にチェックしてなかったので、ゲットし損ねました・・・。死ぬほど後悔しています。いつかもう一回東国三社巡りしたい!

 

当日は、鹿嶋駅前のホテルで一泊して、三社とも電車とバスを使って計2日で周りました。香取と鹿島は電車とバスで簡単に行けるのですが、息栖神社のアクセスは車がないときついです。どこをどう歩いたか覚えてませんがタクシー代がもったいなくて3、4時間歩く羽目になりました・・・。しかし、それも今となればいい思い出。息栖神社近くの鹿島セントラルホテルから東京駅まで高速バスが一日に何本もでていたのでそれを利用し東京方面に帰宅。帰りはそれほど歩かずに済みました。同じような旅行スタイルの方、息栖神社には気を付けて!わたくしは今度行く時までにペーパードライバーを卒業します!!

 

 

めちゃくちゃ長くなりましたが最後までご覧いただきありがとうございました!

 

【体験談】心臓に不安のある人でも親知らずは抜けるのか。いくらかかるのか。

 

 

 

「これ親知らず抜かないとまずいね」

 

 

虫歯を治療するため近所の歯科クリニックに通っていましたが、レントゲンをみた歯医者さんにこう言われてしまいました。10年ほど逃げ回っていたのですが、ついにこの日がやってきました。

 

私の親知らずは横向きに生えており、若い頃からいつかは抜かなければならないと言われてきました。ただ、小さなクリニックでは処置できないらしく、紹介状を書いてもらい大きい病院に行かなければならないのです。ビビって今までやり過ごしてきましたが、年貢の納め時。総合病院を紹介してもらい後日、口腔外科の診察を受けに行きました。

 

総合病院で再度レントゲンを診てもらうと、やはり両サイドとも下の親知らずが横向きに生えており、隣の歯を溶かすように食い込んでしまっているようです。隣の歯は神経近くまで溶けてしまっているので、そちらも神経を抜く処置が必要だとのこと。治療の道は長くなりそうです・・・・。

 

親知らずを抜くに際して不安なことがありました。不整脈(発作性心房細動)の持病があり、調子が悪い時は横になっても息ぐるしく、立ちくらみや頭痛でしんどい日もあったのです。この状態で親知らずを抜けるのか心配でした。エリキュースという血栓を防ぐ薬も飲んでおり、血が止まりにくくなるので、その面でも治療が可能なのかわかりませんでした。

 

そのことを先生に相談したところ、エリキュースは継続して飲み続けて問題ないとのことでした。逆に治療後血栓ができやすくなるので薬を止めないのが一般的だそうです。ただ、心臓に問題がある場合、血圧が上がってしまうのがよくないのですが、親知らずの治療は、緊張感や麻酔の作用で血圧が上がってしまいます。そこで静脈内鎮静法という治療法を紹介されました。この方法は点滴による投薬で、ぼうっとしたリラックス状態で治療を受けられる方法です。血圧が上がらず時間も短く感じ、安心して治療が受けられるそうです。ただこの治療は入院が必要で、私の場合は親知らず2本を一度に抜くことができず間をあけて計2回入院が必要になり、それに伴い医療費が高額になります。普通の治療にしようか迷いましたが、安心にはかえがたく最終的には静脈内鎮静法を選びました。

 

静脈内鎮静法に興味がある方は病院でもらった説明書をアップしておきます。

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 この方法は心臓に問題ある人だけでなく、ただ親知らず抜くの怖いという人にもおおすすめのようです。

 

 

入院当日。10時に病院到着しました。病室に案内され、だらだらしながらスマホいじり。

 

12時お昼ご飯。治療中に吐きそうになるといけないので、半分以上残すよう言われました。

治療前に水分補給?の点滴。

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13時。点滴のまま車椅子で治療室へ移動。

口腔外科っていうから勝手に手術室みたいな部屋をイメージしていたのですが、クリニックと見た目には変わらない空間で拍子抜けしました。車椅子から治療椅子に移され、先生と軽く今の症状などおしゃべりしていると、点滴に痛い液体が入ってきました。「な、なんか痛いです!」と看護師さんに伝えると、「これ痛いやつだから」と。どうやらこれが、鎮静剤のようです。

すぐにほんわかしてきました。声は聞こえて返事もできるのですが、ぼうっとしてきて、酔っぱらったような気分のいい状態に入りました。すぐに治療が始まり、がりがりバリバリ歯を砕きながら除去しているのがわかります。意識は残っていましたが、全く痛くないし恐怖心も起こりませんでした。なるほどこれは楽だ。多分かかった時間は10分から20分くらいだと思うのですが、意識朦朧で気にもなりませんでした。体感としてはあっという間で、治療が終わるとストレッチャーに移され、部屋まで運んでもらいました。

 

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夕方くらいには意識元通りになっており、水分補給?の点滴と抗生剤の点滴をしました。ほとんど痛みなくその日の夕食を食べることができました。おかゆでしたが、おかずは普通の食事で、この日は鯖みそでした。半解凍のゼリーも出ましたが、しみることもありません。美味しかったです。ここから食後に飲む痛み止めが3日分が処方され、毎食後飲み続けなければなりませんが、この時点でなんだかもうすっかり終わった気になっていました。

 

9時消灯。することもないので眠りました。夜中2時ごろ痛みで起きて頓服の痛み止めを飲みます。夜間は時間が空くので食後の薬がきれて、痛みが出やすいらしいです。薬が効いてきて再び就寝。これが親知らずの抜歯か!とここで実感しました。

 

入院2日目。朝、再び抗生物質を点滴。ちなみに点滴は終わると管は外しますが、針はさしっぱなしで、就寝中とかは自由に腕が曲げれず退院まで結構なストレスになりました。とにかく点滴が多い。

 

朝食をとり、先生に治療痕の確認をしてもらいます。入院中は、傷口が開いてしまうことがあるので歯磨きや口をゆすぐのも優しく、うがいは絶対にしないよう言われていました。この時点で傷口が開かなければ大体出血することはないと言われたのでとりあえず一安心しました。

 

10時退院。しばらくは出血しやすいので、入浴や運動など血行が良くなることを控えるように言われました。一週間後に抜糸の処置に来るよう言われ予約をとり、家族に迎えに来てもらい車で帰宅しました。

 

夕方頃、鏡を見てみると頬に飴玉大の腫れができていました。意外と余裕じゃんと思っていましたが、痛み止めが切れると結構痛い。ネットでは気絶するくらい痛いとか、痛すぎて知らない通行人に痛み止め飲ましてもらったみたいなカキコミを読んでいたので恐怖でしたが、最初に最大限ビビっておいたおかげで思ったほどは痛くなかったのは幸いでした。しかし、その日の深夜、痛み止めの効き目が切れてしまい、頓服で痛みを抑えて眠りましたが、朝まで効かず再び起き、そこからは寝むれませんでした。

 

3日目朝。先生の予言通り、2日目より痛みも腫れも1.5倍になっています。早く痛み止めを飲みたいので朝5時に朝食をとり、すぐ薬を飲みます。少し和らぎましたが、しんどい。しばらくして我慢できず、頓服を飲むというような状態でした。

 

4日目、薬は全部飲み終わったのですがやはりまだ痛むので、近所の歯科クリニックで痛み止めをもらいました。すると、この日はそのまま夜になっても痛みが来ませんでした。4日間で痛みの波が去ったようです。後は治療部分が開かないよう気を付けて食事、歯磨きをして、自然治癒力に任せればよさそうです。

 

一週間後。ちょくちょく痛みましたが我慢できないほどではなく、痛み止めなしで過ごすことができました。最後に抜で通院し、無事親知らず1本目の治療が終了しました。

 

それではいやらしい話ですが明細の発表です。

①初診(レントゲン

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②治療・入院

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③抜糸

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というわけで

 

合計 38,640円 となりました。

 

もう一本抜くと77,280円。隣の歯も神経抜く治療もしなくてはいけないので9万円近くかかりそうです・・・。入院保険が多少でそうですが焼け石に水。今回の治療で一番痛いのは財布なのかもしれません・・・。

 

ちなみにネットで調べてみると通常の治療であれば1本1万円いかないくらいだそうです。正直もう一本の治療法どうしようか迷ってます・・・。

 

 

以上、親知らずの抜歯体験レポートでした。

親知らずを抜いてみて、確かに痛かったですがこのくらいならもっと若い時に抜いておけばよかったなと思いました。横向きに生えて外に露出していない親知らずを抜く人もも、それほど痛まず乗り切れる可能性もあるようです。ネットでは怖い体験談がたくさんあるので躊躇しがちですが、若いうちに思い切ってやってた方がいいのかもしれません。よかったら参考にしてみてください。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

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以後の経過は↓の追記をご覧ください。

 

 

追記:抜歯1週間後、抜をしましたが痛みがぶり返してきました。溶けた隣の歯が痛むのか、今回の親知らずが痛むのかわかりませんが、痛み止めがないと頭が痛くて眠れないです。隣の溶けた歯の治療は3~4週間後にした方がいいと言われているのでもう少し痛み止めで我慢してみます。)

 

(追記2:糸を抜いて4,5日間、痛み止めが効く時間がどんどん短くなってきて薬なしでは我慢できません。まだ抜歯から2週間ほどですが、親知らずの隣の溶けた歯の神経をぬいてもらいました。まだ痛みますがずいぶん楽になりました。ただ神経を抜いた歯の根元が親知らずの圧迫で変形して処置が難しく、治療に1時間ほどかかりました。連日の大量の薬の摂取が体のストレスになったのか分かりませんが、夜、心房細動の発作が出そうになりました。運よく短い時間で治まりましたが、あらためて早めの治療をしておけばよかったと後悔しています・・・。まだ静脈内鎮静法があるだけよかった。普通の抜歯は到底無理そうです・・・。)

 

(追記3:3週間ほどたって、痛みは一番痛いときの半分ほどになっていますが、夜になるとまだ痛みで起きてしまい痛み止めが手放せないです。ネットで調べると親知らず抜歯後、痛みが一週間以上続く場合は、傷口に細菌が感染してしまっているか、ドライソケットという歯茎が上手く修復できていない症状のどちらかのケースが多いようです。とにかく抗生物質と痛み止めを飲み続けています。もう薬飲みたくない。)

 

追記4:痛み止まらず。クリニックで継続して隣の歯の神経抜く治療もしていますが、根が曲がっているためどうもきれいに歯髄を削りとれていない可能性があるらしいです。痛みがおさまらなければ、神経抜いた歯まで抜くことになりそうです。)

 

追記5:総合病院の口腔外科で見てもらったところ、親知らずの抜歯痕はきれいに治っているそうで、手前の歯が歯髄炎を起こしているかもしれないとのことです。)

 

追記6:抜歯後3週間目を過ぎました。痛みが急に落ち着いてきて痛み止めを飲まなくてよくなりました。このままなら、神経を抜いた手前の歯の治療を進められ、何とか抜かずに済みそうです。ようやく光が見えてきました!改めて横向きに親知らず生えている方、早めの治療を!)

 

(追記7:抜歯後4週間目。ほぼ完全に痛みなくなりました!よかった!もう一本の親知らずすぐ抜こうと思っていましたが、だいぶ薬漬けになったのでしばらく間開けようと思います。お疲れさまでした。)

 

( ´Д`)ノ~バイバイ

 

 

神を降ろす鎌とは?諏訪大社下社の遷座祭

諏訪大社の下社には春宮と秋宮の二つがあります。1年に2回、神様はその二つの神社間を移動し鎮座する場所を移します。その神事が2月1日と8月1日に行われる遷座祭です。特に8月の遷座祭はお舟祭りとも呼ばれ、氏子達が乗った巨大な舟を引っ張り、市中を曳きまわす盛大なお祭りが行われます。

 

しかし、ここはあえて地元の人くらいしか行かない2月の遷座祭をレポートします。下社の春宮・秋宮の2つの神社で行われるこじんまりとして厳かな儀式ですが、これが意外に面白かったので、写真だけでもご覧ください!

 

遷座する神様は八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)です。この神様は諏訪大社上社の御祭神・建御名方神(タケミナカタノカミ)の姫神です。タケミナカタは「国譲り」の神話の中で、タケミカヅチという神様にコテンパンにやられ諏訪に逃げこんできた神様です。諏訪から出ないことでタケミカヅチの許しを得たと伝えられています。

 

上のような説明が一般的にされていますが実は諏訪明神の正体はっきりとは分かっておらず諸説あるようです。諏訪明神=タケミナカタとされたのは室町時代頃に書かれた諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)にこの説が採用されていたことが大きいようで、諏訪明神の信仰が始まってからかなり時代を下った後の話のようです。その辺の諏訪の信仰について最高にわかりやすく詳しく書いてある本があるので興味ある方はどうぞ↓。諏訪大社に興味ある人は絶対に面白いと思います。おすすめです。

『諏訪の神さまが気になるの』 北沢房子

(↑画像クリックでAmazonレビューに飛びます)

 

 

 

前置きはこれくらいにして遷座祭の様子はこちらです。

午後1時、秋宮の幣拝殿前で神事が始まりました。

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続々と神職の方が現れます。氏子や参列者が続き、幣拝殿の前に整列します。

 

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幣拝殿前で清めの儀式や祝詞の口上が30分ほど続きます。祝詞の間はずっと頭を下げていないといけないので、結構しんどかったです。

 

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一通り終わると神輿担当の氏子たちが幣拝殿の奥へ入っていきます。

 

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矛や旗を持つ担当の氏子たちは、それぞれ担当の物を手に取って行列の準備に入ります。想像より重かったようで、よろよろして倒しそうになってる人もいました。

 

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こちらは「薙鎌(なぎがま)」です。

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独特な鳥のような形をしたこの薙鎌は諏訪大社の神事には欠かせない神器です。本来は柄の部分がついていない状態で使われ、この鎌を下の写真のように木に打ちつけると諏訪明神のご神威が宿るとされています。人が乗った大木を坂から滑り落とすことで有名な御柱祭で使われる神木も、この薙鎌を打ちつけ諏訪明神を宿した後に切り倒され祭りに使われるのです。

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(写真は守矢資料館のモニュメント。薙鎌が刺さっているのがわかるでしょうか。)

また薙鎌の薙(なぎ)は「凪(なぎ=風のない状態)」に通じるともされ、薙鎌は風をバラバラに切り、暴風雨をおさえこむ力があるとも伝えられます。昔の人にとって天候は農作物の出来を大きく左右し、生き死にに直結する問題だったためこうした神器や神事が生まれ、神様の力にすがったのではないでしょうか。

 

幣拝殿の奥からいろいろなものを担いで氏子の方々が出てきました。

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こちらは御正台(みしょうだい)。二基あり、行列していると地元の人がこの神輿におひねりを投げ込んでいました。

 

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近くで見るとこんな感じです。

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小さな鳥居の下にかけられた生地には龍と雲が刺繍されていました。

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こちらのかごの中に入っているのは御篋(おはこ)。中が何かは不明。声が掛けれれば神職の方にいつか中身を聞いてみたい。

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こっちは春宮からの帰り。空になっているのがわかります。春宮の宝殿におさめる何かを運んでいたようです・・・。

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そしてこちらがメインの御霊代(みたましろ=御神体)を載せた御神輿です。豪華絢爛な、いわゆる御神輿とは違い、その棺のような外観は見る者の心をひきつけます。

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神輿にかぶさった布地の柄は「梶の木」。諏訪大社の神紋です。根が5本が下社、4本が上社の神紋です。

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いつもはまん中にはお賽銭箱が置かれているこの神楽殿ですが、遷座祭では御神輿が突っ切ります。(下の写真は普段の様子。)

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短いですがこれが、神輿が神楽殿を突っ切る様子です。


諏訪大社下社。2月の遷座祭。秋宮の神楽殿を突っ切る様子。


そのまま秋宮の鳥居をくぐり、下諏訪の街にくり出します。

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こちらは普段の駅前の大通り。ここを下って春宮に向かっています。

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下っていく様子。

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春宮から800mほど離れたところにある大鳥居。

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こちらは「下馬橋(げばばし)」

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修繕はされていますが、室町時代の建築で諏訪大社4社の中で最も古い建造物です。その名はどんなに身分の高い人でも参拝の際には、馬を降りて渡った橋とされることに由来します。道端に唐突に現れているように見えますが、今も橋の下を暗渠が流れています。

 

遷座祭の日には上の写真に見える柵が外されます。行列はよけて歩きますが、御神輿はこの橋の上を渡って行きます。

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いいなぁ。

 

そして秋宮を出て4,50分ほどで春宮に到着。

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秋宮と同じように普段はしまっている神楽殿も、この日は神輿が突き抜けていきます。

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(↑普段の神楽殿。)

 

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 突っ切る。

 

神楽殿を抜けそのまま幣拝殿の中へ。

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あとは、再び神事が始まり、祝詞が口上されます。中の様子は見えないのでどんなことをしているのか見ることはできませんでした。残念。ですが、祝詞を聞いているだけで清々しく心が洗われていくような気がしてきます。

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見えないところで何かやっています。

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神事終了後、幣拝殿の普段空いていない戸が開いていたので、そこから御宝殿を撮影。何やら神事はここで行われていた様子。神宝などが納められている場所のようです。諏訪大社に本殿はないので、ここが春宮の心臓部といったところでしょうか。

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儀式が終わったら再び御神輿は秋宮に帰っていきます。

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神様はもう春宮に鎮座されたようなので、秋宮までは同行せずお見送り。次は8月1日のお舟祭りに必ず来ますと誓って、そのまま下諏訪駅に向かいました。下諏訪駅の構内から富士山が見え、神事の余韻と相まって、何とも崇高な気分で家路につきました。

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以上、2月の遷座祭のレポートでした!

長くなりましたが、最後までご覧いただきありがとうございました!

勝ったのはどっち?春宮と秋宮で行われた大工の腕比べとは⁉

諏訪大社下社には春宮秋宮の2つがあり、およそ1キロメートルくらい離れた場所に位置します。そこでは遷座祭と言って神様を春宮から秋宮へ、また秋宮から春宮へと半年ごとに移動させるお祭りもあります。この2つの神社にはなにやら名工たちによって繰り広げられた逸話があると聞いたので自分なりに調べてみました。よかったらご覧ください。

(下の写真は下諏訪の街の中を練り歩き神様が移動する2月1日の遷座祭。観光客はほぼいなかった。8月の遷座祭・お舟祭りの方が賑やからしい。)

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宮大工から生まれた宮彫の流派

日本の伝統彫刻には大きく分けて、仏像彫刻と宮彫(みやぼり)の2つがあります。宮彫とは神社仏閣を飾る装飾彫刻のことです。当初、宮大工の棟梁が簡単な模様や飾りを彫っていましたが、それが発展し専門的になっていきました。後に流派が生まれるようになり代表的なものは、江戸時代前期に大隅流後期に立川(たてかわ)流がでました。

 大隅流は平之内大隅守(へいのうちおおすみのかみ)がおこした流派で、日光東照宮や湯島聖堂の造営などの幕府の仕事を請け負いました。その大隅流から棟梁の立川小兵衛(たてかわこへえ)が分派し江戸に立川流がおこり、後にこちらも発展し幕府の仕事を任されるようになります。

 

ちなみに・・・。

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こちらは湯島聖堂。先ほど湯島聖堂の造営に大隅流がかかわったと説明しました。残念ながら元の聖堂は4度の江戸の大火に遭い、その都度修復したようですが1923年の関東大震災で焼失してしまったそうです。現在の建物は寺社建築の第一人者・伊藤忠太が寛永年間の建物を参考に、鉄筋コンクリート造りで再建したものです。

 

諏訪の名工・立川和四郎富棟あらわる!

信州の諏訪に桶職(桶や井戸回りの設備を造ったり修繕したりする大工)である塚原家がありました。その子・和四郎は江戸へ出て立川流の立川小兵衛に奉公します。天賦の才もあり、そこでめきめきと腕を上げた和四郎は、棟梁の小兵衛に認められ立川姓をさずけられ立川和四郎富棟(たてかわわしろうとみむね)を名乗ることとなりました。

 

和四郎はいったん郷里の諏訪に戻り独立しますが、諏訪で全盛を極めていた大隅流の彫刻をみて自分の未熟さを痛感。再び江戸へ戻り、宮彫師・中沢五兵衛に師事し彫刻の腕を磨きます。そして数年後、故郷に戻り棟梁として新しく諏訪に立川流をおこし、後年こちらの立川流が隆盛を極め、立川流と言えば諏訪の立川流を指すようになっていきます。

 

春宮と秋宮での腕比べ。

和四郎が江戸で宮彫りを学び再び諏訪に戻った頃、春宮と秋宮の改築が諏訪藩によって計画されました。藩主は大隅流立川流を呼び寄せ、両者に同じ絵図面を渡し、同じ規模、同じ期間で同時に二つの社を作ることを命じ、互いに彫刻の腕を競わせることにしました。春宮は大隅流の地元の宮大工・柴宮長左衛門が、秋宮は立川流の和四郎・つまり立川和四郎富棟が棟梁を務めました。

 

春宮1779年、秋宮1781年に完成し、いずれも長野県下諏訪町に国重要文化財として現存しています。

 

それでは比較してみましょう!

諏訪で全盛を誇っていた大隅流新興のイケイケの立川流。皆さんはどちらがお好みでしょうか?

 

 

大隅流と立川流の比較

春宮幣拝殿(大隅流)

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秋宮幣拝殿(立川流)

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どちらもほぼ見分けがつかないほど似ています。幣拝殿とは幣殿と拝殿が一体となった建物で、お賽銭のすぐ横に供物を供える台がある変わった造りになっています。

それでは、彫刻も見てみましょう。

 

 

春宮の彫刻(大隅流)

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秋宮の彫刻(立川流)

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皆さんはどちらが好きですかね。私は木鼻の獅子は大隅流の方が表情が豊かで好きですけどあとは立川流ですかね。写真が悪いのもありますが、大隅流はごちゃごちゃしていて何なのかよくわからなくなっているような気が・・・。

結果、当時も立川流の方が評判が良く、秋宮は立川和四郎富棟の代表作となり、以後立川流が大隅流を圧倒して勢力を拡大していくきっかけとなりました。

 

この後、息子の二代目立川和四郎富昌(とみまさ)も父親に勝るとも劣らぬ実力の持ち主で、諏訪を飛び出し遠方でも活躍するようになり、善光寺秋葉神社などを残してました。また、静岡浅間神社では富棟からはじまる親子孫三代にわたり造営にかかわり、さらに名声を広げ、愛知県豊川稲荷、半田の山車や岐阜県高山の屋台なども手がけるまでなっていきます。

 

ちなみにこちらは長野県善光寺。

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調査は以上となります。まさか春宮と秋宮に昔の宮大工たちの流派とプライドをかけたこんな熱い戦いが繰り広げられていたとは思いもよりませんでした。神社には行くけど、神社の彫刻はあんまり興味ないという方も、大隅流か立川流かの説明をもし目にする機会があれば興味の入り口になるかもしれませんのでぜひチェックしてみてください!

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

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奈良時代の女性はどんな化粧をしていたのか?

私の昔の高貴な日本人女性の恰好と言ったらこんなイメージでした。

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長く垂れ下がった髪。豪華で重そうな十二単(じゅうにひとえ)。おしろいで真っ白な顔に紅を塗った口元と変な眉。出てくるのは百人一首で描かれているようなこんな女性のイメージ。

 

上の写真は東京国際フォーラムで展示されたジオラマです。もっとさかのぼれば日本の昔の女性装束と言ったら卑弥呼の時代あたりの布切れを巻いて腰を紐で結んでる姿が浮かびます。ところが展示場を回っていると見慣れない姿をした女性の人形が。それがこちらです。

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えっナニコレ。外国人?

 

と思ったのですが、調べてみると冒頭の装束は日本独自の文化が発展した平安時代以降の衣装のようで、上の二枚の写真は仏教が伝来したころ(飛鳥時代)から平安時代の初め頃までに見られた中国の宮廷文化の影響を受けた日本女性の装束だったようです。(髪が茶髪なのは色々検索しても情報出てこないし、当時外国人女性が給仕していたとも考えられないので最後まで謎でした・・・。)

 

当時、流行りの髪形は頭上一髻(ずじょういっきつ)と呼ばれ、頭上で髪の毛を一つに結わえたものです。はじめは男性の髪型でしたが、後に女性にも広まったようです。髻(もとどり)の大きさは身分・男女によって大きさ等に違いがあったとか。ジオラマの中の女性にはこの髪型はいなかったのですが、仏像にもみられる髪型ということなので仏像の写真を載せておきます。

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Wikipediaより転載

ガンダーラの仏立像(1-2世紀)東京国立博物館

 もう一つ主に女性たちの中ではやったのが頭上二髻(ずじょうにきつ)で髻(もとどり)が二つのタイプです。それが先ほどのジオラマの女性の髪形です。

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個人的には平安時代以降の姿よりもこちらの方がずいぶんおしゃれに感じます。

ふと思ったのが、そういえば「浦島太郎」の乙姫様って絵本とかだとこんな感じの姿だったなということ。竜宮城は中国の宮廷をイメージしたのだろうか。それとも飛鳥・奈良時代の日本の宮中などをイメージしたのだろうか。ふつふつと興味が湧いてきましたが、それはまた別の機会に。

 

 


それでは次にお化粧を見てみましょう。日本にこんな文化があったんだ。額と口元の点は一体何なのか調べてみました。

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どうやら上の写真に見られる顔に描かれた額の4つの点は花鈿(かでん)、口元の2つの点はよう鈿(ようでん)といわれるものらしいです。起源は諸説あるようですがその一つを紹介します。

中国三国時代の呉国に鄧夫人という美女がいて、誤って頬を傷つけられてしまいました。すぐに手当てしましたが、その傷は完全には治らず赤い斑点が残ってしまいます。ところが、その斑点が逆に魅力的で美しいと評判になり、他の女性たちまで真似するようになっていったとか。

泣きぼくろがかわいいとか、口元のほくろがセクシーとかいってメイクで描いたりするのと同じですね。元々は中国の文化だったようですが、この花鈿(かでん)・よう鈿(ようでん)や流行の髪型まで日本に入ってきたことを思うと、国境をこえた女性の美意識の高さに驚かされます。

 

最後にYouTubeで平城京天平祭の動画があったので張っておきます。頭上一髻(ずじょういっきつ)、頭上二髻(ずじょうにきつ)、花鈿(かでん)よう鈿(ようでん)が確認できます。ただとにかく美人がみたいという人にもおすすめ。


平城京天平祭 2018 華やかな平城京天平行列 NARA JAPAN

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

 

万葉集にはどんな歌が詠まれているのか?  ~令和の由来ともなった「梅花の宴」~

前回の記事では令和の由来について東京国際フォーラムに展示されていた解説とジオラマを参考に紹介しました。

今回は令和の年号の典拠となった万葉集の中の『梅花の宴』の場面で歌われた32首の歌を紹介します。

 

が、ちょっとその前に万葉集とはどのような歌集なのかを簡単に調べてみました。

 

Q 『万葉集』とはいつ頃編纂された歌集なのか?

A 7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された(わが国最古の歌集)。長年にわたり複数の編者の手が加わり、最終的に大伴家持(おおとものやかもち)の手によって完成されたとされている。

 

Q 誰が詠んだ歌なの?

A 作者は天皇、貴族から下級官人、農民、防人など身分を問わず様々。日本各地から歌が集められ、収められている。

 

Q どのくらいの歌が収められているの?

A 約4500首。全20巻にまとめられている。

 

この『万葉集』の中の「梅花の宴」のシーンは梅の花の下で行われた宴会で詠まれた32首が収められています。場所は、今の福岡県に置かれていた大宰府の長官・大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で、庭でお酒や食事を楽しみながら歌を詠んだ様子が序文に描写されています。下のジオラマでその時の様子を再現しています(東京国際フォーラム展示)。

(序文の現代語訳は冒頭の前回記事のリンクから確認できます。)

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およそ1300年程前の日本人は梅の花を前に一体どんなことに感動し、どのように表現したのでしょうか。それでは32首の和歌と現代語訳を見てみます。

 

 

①正月(むつき)たち 春の来たらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しきを経(へ)め

(正月になって春がきたならば、今後も毎年このように梅を見ながら楽しい事の限りを尽くしましょう。)大弐紀卿

 

②梅の花 今咲ける如(ごと) 散り過ぎず 我が家(へ)の園(その)に ありこせぬかも

(梅の花よ。今咲いているように、いつまでも散ってしまわずにこの家の庭に咲きつづけてくれないか。)少弐小野太夫

 

③梅の花 咲きたる園の 青柳は かづらにすべく 成りにけらずや

(梅の花の咲いているこの庭の青柳もまた、髪飾りにすることができるほど立派になったではないか。)少弐栗田太夫

 

④春されば まず咲く庭の 梅の花 ひとり見つつや 春日(はるひ)暮さむ

(春になると最初に咲く庭の梅の花を、私ひとりで眺めつつ春の日を過ごすなどどうしてできようか。)筑前守山上太夫(山上憶良)

 

⑤世の中は 恋繁(しげ)しゑや かくしあらば 梅の花にも 成らましものを

(世の中は恋に苦しむことが多いものだ。それならばいっそ梅の花にでもなってしまいたいものだ。)大豊後守大伴太夫

 

⑥梅の花 今盛りなり 思うどち かざしにしてな 今盛りなり

(梅の花は今が盛りだ。親しき人々よ、かんざしにして飾ろう。今が盛りだ。)筑後守葛井太夫

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⑦青柳(あおやなぎ) 梅との花を 折りかざし 飲みての後(のち)は 散りぬともよし

(青柳と梅の花を折って髪飾りにして、酒を飲んだその後は梅の花はもう散ってしまってもかまわない。)笠沙弥

 

⑧わが園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れくるかも

(我が家の庭に梅の花が散っている。それとも天から流れるように雪が降っているのだろうか。)主人(大伴旅人

 

⑨梅の花 散らくはいづく しかすがに この城(き)の山に 雪は降りつつ

(前の旅人の歌をうけて)どこに梅の花が散っているのですか。それにしても、まだ春は浅く、この城の山には雪が降り続いていますよ。(旅人の比喩に調子を合わせている)大監伴氏百代 

 

⑩梅の花 散らまく惜しみ わが園の 竹の林に うぐいす鳴くも

(梅の花が散るのを惜しんで、私の庭の竹林にうぐいすが鳴いているよ。)少監阿氏奥島

 

⑪梅の花 咲きたる園の 青柳(あおやぎ)を かづらにしつつ 遊び暮らさな

(梅の花の咲いている庭の青柳を髪飾りにして、梅の花を眺めつつ一日を遊び暮らしましょうよ。)少監土氏百村

 

⑫うち靡(なび)く 春の柳と 我が宿の 梅の花とを いかに分かむ

(たなびいている春の柳と家の梅の花と、どちらが優れているのかなど、どうして判断できようか。)大典史氏大原

 

⑬春されば 木末隠(こぬれがく)れて 鶯ぞ 鳴きて去(い)ぬなる 梅が下枝(しづえ)に

(春になると、梢の茂みに隠れている鶯が、鳴いては飛び移ったりしている。梅の下枝に。)少典山氏若麻呂

 

⑭人ごとに 折りかざしつつ 遊べども いや珍らしき 梅の花かも

(みなそれぞれ(枝を)折り髪飾りにして遊んでいるが、飽きることがなくて、ますます素晴らしい梅の花だなあ。)大判事丹氏麻呂

 

⑮梅の花 咲きてちりなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや

(梅の花が咲き散ってしまったならば、つなぐように桜の花が咲きそうになっているではないか。)薬師張氏福子

 

⑯万代(よろずよ)に 年は来経(きふ)ども 梅の花 絶ゆることなく 咲き渡るべし

(はるか長い歳月を経ても、梅の花は絶えることなく咲き続けるだろう。)筑前介佐氏子首

 

⑰春なれば 宣(うべ)も咲きたる 梅の花 君を思ふと 夜眠(よい)も寝(ね)なくに

(春になってなるほどよく咲いた梅の花よ。君がいつ咲くかと自分は夜も眠れなかったのに。)壱岐守板氏安麻呂

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⑱梅の花 折りてかざせる 諸人(もろひと)は 今日の間(あひだ)は 楽しくあるべし

(梅の花を折り髪飾りにして遊ぶ人々は、今日一日がさそかし楽しい事だろう。)神司荒氏稲布

 

⑲年のはに 春の来たらば かくしこそ 梅をかざして 楽しく飲まめ

(毎年春が来たならばこうして梅をかざして楽しくお酒を飲もう。)大令史野氏宿奈麻呂

 

⑳梅の花 今盛りなり 百鳥の 声の恋しき 春来たるらし

(梅の花は今が盛りだ。色々な鳥たちの声の恋しい春がやってきたようだ。)小令史田氏肥人

 

㉑春さらば 逢はむと思いし 梅の花 今日の遊びに あひ見つるかも

(春になったら会おうと思っていた梅の花に、今日のこの宴の席で出会えましたよ。)薬師高氏義通

 

㉒梅の花 手折りかざして 遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり

(梅の花を手折り髪に飾って遊んでも、遊び足りない日とはまさに今日のことだなあ。)陰陽師磯氏法麻呂

 

㉓春の野に 鳴くや鶯 懐(なつ)けむと 我が家(へ)の園に 梅が花咲く

(春の野に鳴く鶯。その鶯を呼び寄せようと我が家の庭に梅が花を咲かせている。)算師志氏大道

 

㉔梅の花 散り乱(まが)ひたる 岡傍(び)には 鶯鳴くも 春片(かた)設(ま)けて

(梅花の散り乱れる岡の辺りに鶯が鳴き、春がますます深まっていく。)大隈目榎氏鉢麻呂

 

㉕春の野に 霧立ち渡り 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る

(春の野に霧が立ち渡って、雪が降るのかと人が思うほどに梅の花が散っている。)筑前目田氏真神

 

㉖春柳(はるやなぎ) かづらに折りし 梅の花 誰(たれ)か浮(うか)べし 酒杯の上に

(髪飾りにするために折った梅の花を、酒盃の中に誰が浮かべたのだろうか。)壱岐目村氏彼方

 

㉗鶯の 声(おと)聞くなへに 梅の花 吾家(わぎへ)の園に 咲きて散る見ゆ

(鶯の鳴く声を聞くのにつれて、梅の花が我が家の庭に咲いては散るさまが見える。)対馬目高氏老

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㉘我が宿の 梅の下枝(しずえ)に 遊びつつ 鶯鳴くも 散らまく惜しみ

(我が家の美しく咲いた梅の下枝で遊びながら鶯が鳴いている。梅の散るのを惜しんで。)薩摩目高氏海人

 

㉙梅の花 折りかざしつつ 諸人(もろひと)の 遊ぶを見れば 都(みやこ)しぞ思ふ

(梅の花を折りかざして人々が遊ぶのを見ていると、都のことが思い出される。)土師氏御道

 

㉚妹(いも)が家(へ)に 雪かも降ると 見るまでに ここだも乱(ま)がふ 梅の花かも

(恋しい人の家に雪が降るのではないかと思うほどに散り乱れる梅の花だ。)小野氏国堅

 

㉛鶯の 待ちかてにせし 梅が花 散らずありこそ 思ふ子がため

(鶯が開花を待ちわびていた梅の花よ。散らずにいてほしいものだ。わが愛するひとのために。)筑前掾門氏石足

 

㉜霞(かすみ)立つ 長き春日(はるひ)を かざせれど いや懐かしき 梅の花かも

(霞の立つ長い春の日に髪飾りにしているが、なおも恋しい梅の花だ。)小野氏淡理

 

(以上、東京国際フォーラム展示解説・現代語訳を参考に意訳)

 

 

いかがだったでしょうか。現代の生活のような多様性はないので、みな似通った語彙が使われていますが、それでも様々な角度から、おもいおもいに気持ちを表現しています。新しい発見だったのは梅花や柳で、髪や冠を飾るのが昔の人にとってはこの上ない贅沢な遊びだったことが読み取れることです。美術館やコンサート会場なんかなくても、花とお酒と自作の歌で楽しめるその精神性は豊かでうらやましく思います。

 

今まで和歌を作ろうなんて思いもしませんでしたが、梅の咲く季節に自分でも和歌を作ってみるのも悪くないかもしれないと思いました。皆さんも梅を見たらその思いで一句作ってみてはいかがですか?

 

ここで一句・・・。

 

 

 

 

 

・・・と思いましたが何も浮かばない。びっくりするほど浮かばない。梅がないからだな・・・。たぶんそうだ。来年、梅が咲くまで持ち越しです・・・。きっと来年いいのが思い付くはずです。たぶん。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました!